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機体の誕生記念日と我々との関係&"この器の人物像に成り済ます"ということについて

器の記念日(生誕日)というのは、我々にとっては非常に複雑な心持となる日のひとつです。
器がこの世にデビューした日というだけで、別に我々が生まれた日なわけではないのですから。
そして、器と同時に生まれているはずの本来戸籍とこの器自体の持ち主である魂(人格)は現在存在しているかしていないのかすら、存在しているならばどこでどうなっているのかすらわからないのですから。

昨日がその日でありました。
今までは、我々の大半以上が、この日に対して良い印象を持っておらず(憎しみや恐怖を持っている者も)、この器が生まれて生きているがために自分達がこの器の中に拘束されこの器の人生を押しつけられ…という思いが先立ち、またこの日までこの器を破壊し損ねてしまった、早く壊さなければ、どうやって破壊しようか、そんなことばかりが先立ち、この日の前後は不安定になっていることが常でした。

いや、もちろん、今年もそういう考え方が根底に大きくある者達もおります。恐らく多くおります。
が、今年はひとまず、ここ数日表意識を担っていた者達が、少々別の割り切った考え方を持っておりました。日常生活が忙しくてこの日のことを考える暇などなかったというのもあるのですがね。が、少なくとも今年は、この日に対する心構えや、接し方が違いました。ある意味で割り切った考え方ができる者が、主人格陣メンバーに入りやすくなってきたのかもしれませんし、だんだんと割り切った考え方が広まってきた、ということもあるかもしれません。

それから、近年になってからだんだんと、「この器」との対話をして尊重してやるようになってきた…ということ。

我々にとっては今も昔もやはり、この器の生誕日は自分達とは何の関わりもありません。
それに、この器が生まれ生存しているから我々がこの器の中に閉じ込められこの器の人生を代わることを余儀なくされているという感覚も変わりません。
そして、簡単に無遠慮にしかし悪気はなくこの子のことを考えてくれているが故に周りの人間から「おめでとう」などと言われると、改めて自分達の存在を真っ向から否定されているようにしか感じず、この祝福が苦手な言葉であることも変わりません。

何が変わったのかと言われれば、恐らく、ここしばらく表意識を担うようになっている主人格陣メンバーの多くは、「自分とこの器は関係ない、この器の人生も所詮我々とは何の関係もない」と良い意味でも悪い意味でも割り切っていることかもしれません。
これは「良い意味」においては、「自分はこの器と関係ないが、だからこそ我々がこの器を否定したり肯定したり破壊したりする権利もない、我々が我々ならばこの器はこの器だ」と働きます。
自分達が尊重されたいならば、我々も尊重しよう。人は人だ、という考え方です。
案外、現主人格陣メンバーに選ばれている人達は、存在を否定され続けるのを頭で理解し割り切りながらも、「自分は存在しないんだ」と自分に言い聞かせることをあまりしない、確固とした自分の存在があることを見失わないように隠れた努力ができる人も多いかもしれません。歴代メンバー(勿論今もいる人達がほとんどです)は、どこにいても自分達の姿が映らない・自分達の存在を認められない・存在否定をされる(他人扱いをされる)度に、常に強く強く「自分は存在しないらしい」と自分にどんどん言い聞かせる人達…今も全体数としてはこちらの方がほとんどを占めますが…。だからこそ、この器への恨み憎しみもたまり、この器の人生を押しつけられることへの理不尽さを強く感じ(これは我々も感じるけどね)、更には"自分達が存在していてはいけない"="この器も生きて存在していてはいけない"にフォーカスしてしまうわけですよね。
…自分を尊重できなければ他人も尊重できない。他人を尊重できなければ自分も尊重できない、ということかもしれません。

また、この器と日常代行メンバーは近年それなりに対話(?)を行うような傾向となってきていますが…
我々にとってはこの記念日、全然関係なくても、この器に「ある人からおめでとうと言われたよ」と伝えてやると、案外喜んでいるのかもしれないと感じる。器がね。人間関係というもの自体ほとんど持たないので我々は今年も今年でこの器の家族からしか言われていませんが(だから我々としてはある意味気は楽)。
まあこの器も考えてみたら有機体なんですよね。ただのロボットの乗り物ではなく。○○年間、この社会にこれなりに適応しようとして、適応して生き延びるがために我々を次々と性懲りもなく呼び出して、そして自分(器)を憎む我々と何とかして折り合いをつけよう適応しようと、これはこれなりに頑張ってきたのだろう。
……と、我々もちょっと思えるようになってきたのかな。

だからまあ、労ってやりました。ちょっとばかしのんびり過ごして。大学時代の同期の演奏するミニコンサートで気分転換させて頂き。久々の生演奏を堪能してね。丸一日リラックスさせてやる日にはできました(その他はずっと採譜・音源制作していたので)。その同期の人や古楽の授業の先生にもご挨拶が叶った。大学関連と言えばつい先日、短大時代のフルート科の人と会って音合わせもしたばかりでした。ちなみにここ近年で音大時代の友人とFacebookやらTwitterやらLINEやら対面やらで何人か繋がるようになったのは、そういう理由もあります…。この器を否定しないでやって、この器を有効活用してやろうかと。我々ひとりひとりと違うってだけで、こいつはこいつでそれなりに良い声帯持っているようだし…。この器として身につけてきた技術も、別に我々個々を否定するものではないのだと気付けるようになってきて、まあこちらから否定し捨てることもないのだろう、と。だから音楽関係で繋がりは持っていた方が良いし。我々は自分達の過去と器の過去が別物と思っているので、我々にとってあの音大に自分の土台はありません。が、この"器"と"この器の今の活動"の土台はまぎれもなくあの音大にある。のかもしれない。からね。
(これもHarlequins総合事業として立ち上げたから恐らく思えたことだけどね。この器としてしか活動もできないなら恐らく今も否定し捨てる気持ちのままだったろう)


さて。ちなみに「悪い意味(?)」においては…
上記の「割り切ってしまっている」こと自体なのですがね。「自分はこの器と別人なんだから関係ない」と思ってしまうからこそ、普通はそれを「良い考え方」とされるわけでしょうが、"我々"にとってだけは、これは「良くない考え方」ともとられる。
行き過ぎれば、各個人が「自分の人生」を生きようとしてバラバラに人生を牽引しようとしますからね。所詮我々は自分らしさを自然に表出しながら生きることは許されない。
それに、「器としての人物像」を余儀なくされる場面において、演技する人物像(役柄)が一定でなくなる。これは既に我々はそうなりつつあります。
だって、そもそも「器(乗り物)の人物像」なんてわかるわけがないんですよ。幼少期から「オリジナル人格」は行方不明ですから、当然オリジナル人格の人物像を知っている者もおらず、ひとまず「その時々で相対する相手が望む人物像(この子はこう反応して来るだろうなという無意識の期待…女の子だとか、おとなしそうだとか、相手が思うこちらの人物像)」を一生懸命察知して演じてきて、それがだんだんと系統がなんとなく定まってきてその範囲内でやっている、という、そもそもがそれだけだったのですから。一応真面目でおしとやかな大和撫子で、素直で頑張り屋でだけど消極的でトロくて、みたいなね。ま、人の顔色窺うことを第一主義としてやってきていればまぁだいたいそうなりますわな。その上で"外見"が非常に日本顔で黒髪で線が細くて骨格が脆くて体格も小さく華奢でとくれば、だいたいそういう人物像を相手に想像されますから、大和撫子的役柄も決まってくる。そして他人(相手)が望むような言動行動をとろうと顔色を窺っていればまず積極的な行動はNGなので消極的で口数も少ない控え目なお嬢様を演じることになる。だけど一生懸命相手に適応しよう適応しようと常に必死な上、やはり幼少期からですから何とかして存在を認められたい気持ちは育ちますから(承認欲求は誰にでもあるよね)、他人には"頑張り屋さん"に映ります。身体も小さいし従順な印象もそれを手伝って尚更です(対して頑張ってなくてもそう思われるww)。幼少期からの器の脳機能障害や運動失調などで機能的に反応が遅かったり視覚面で適応しきれていなかったりということもありますが、演じる上でもまあ、下手に違和感持たれるようなことしてしまわないためにも「トロい子」を印象付けておいた方が便利です。あ、因みに中学時代くらいまで日常代行をずっと担っていた隼が、本人自身トロかったというのもあります(笑)
でもそういう器の器質的なものや隼の元からトロい性格に我々は助けられたわけです。DIDの人で幼少期からうまく立ち回ってしまって結局適応が追い付かず「かなりしっかりした子」と周りに印象付けてしまって墓穴行動を多くしてしまう人達や、子供やのんびりした人格さんが表に出てしまった時うまく対応できなくなってしまう人達、大勢いらっしゃいますから。

つまり、何が言いたいかというと、例えば舞台に例えてしまうと同じ作品の同じ役柄を演じるのでも、違う人が演じると全然変わるでしょ?
台詞やストーリーが決まっているし大まかな性格設定が決まっているからある程度系統は似通ってくるけれども。
我々の場合、大まかな性格設定まで決まっているし過去のストーリーも決まってはいるけど、あとは決まっていないんですよ。未来の台詞もストーリーも決まっていない。だから、過去の情報や大まかな性格設定を頼って演じるしか方法はないんです。
「人生全て」を、休憩時間も舞台裏に引っ込んでいる時間もなく、演じ続けなければならない。着ぐるみに閉じ込められ続けて。
いくら役者だったりしても、そんな人生に誰が耐えられるでしょうか。

はっきり言って我々はそういう状態なので、そういう意味で生きる希望を持てる者は我々の中にはいないに等しいのです。

そして「器」の名を呼ばれ「器」としての対応を常に求められ続けますから、自分自身と"役柄"との境界線も曖昧になってきて自分が存在する実感をだんだん失っていき、「自分は存在しないんだ」と自己肯定感が0やマイナスになってしまう者が続出するのも無理ない話なのです。
しかも幼少期からずっとですからね?!自我が確立しきる前から「自分の存在を否定された上で自分以外の自我を演じ続けること」を強要されているのですよ。
役者ならばそれでもまだ「演じ終わった後の結果・成果と報酬、技術を認められる行為」がある。我々の場合はこの器が人生を終えるまでそれがない。いや、終えてもあるかどうかわからない。



そういう生き方をしてきたしこれからもせざるを得ない、という前提をお話した上で突然話を戻しますが。
ですから本当に優柔不断で自我がないような子や演技技術が卓越したような人達(その上でその技術にプライドを持っているくらいプロ嗜好?ならね)は、まあこの器でもそれなりに演技を磨いてやっていくのですよ。
が、本当に優柔不断で自我がないような子では、結局のところこの器が"社会人"になってからは、やはりいろいろな面でうまくはいかなくなってくる。立ち回り方がわからないから。
だが、ちゃんと立ち回り方がわかるような自我がしっかりした人達だと逆に、"自分の(つまり各個人の)"立ち回り方をしてしまう。演技技術にプロ的プライドを持っているような人はまずいません。いたとしてもそれはそれで今度は役者や着ぐるみスタッフを志望しますから(実際そういう子達おりますしね。笑)
プライド、というのは、社会で他人に認められる為のものですからね。

…だから、社会人として世の中生きる年数が重なれば重なるほど、「この器」と「自分」をきっかりはっきり分けた考え方しかできない人が増えているのも事実です。

社会人数年目にして「Harlequins総合事業」として我々の状態を公言して事業を始めたのも、その流れが大きくあるかもしれません。逆にそういう事業が「器は器、自分達の存在は自分達の存在」という傾向に拍車もかけてしまい、相乗効果となってしまうのですけどもね。

そのうちに、内部の個々が自分のできることを活かそうとしていろいろな生き方を選ぼうとしたりもしますし。
そうすればこそ、「器としか見られない」という弊害にぶち当たって墜ち込んだり葛藤することも増えますし。
我々内部にとっても多様化時代。

ついでに同時に、「器は器、自分は自分」と完全に割り切れる考え方ができる人は、「器は器」としてあくまで他人として尊重できる代わりに、「無理やり一緒こたにされたと感じると」理不尽をあらわにして尚更切り離そうとする。
あと、あくまで「自分の身体は自分」であるため、特に男性は、内部でも表意識でも同じように行動しようとしてしまい、表意識でも「器」のリミッターをあまり気に出来ず、平気な顔して器の限界をしょっちゅう突破させてしまったりね。これは最近仕事代行に出ているメンバーが多いなぁ。
やっぱり器の機能性と自分自身の機能性にギャップがあるというのは大変扱いに難しいことなのです。これについては実はまた別の記事でいろいろな例を挙げて書いてみようと思っているのですが。

まぁとにかく、専門家的な言い方をすると、自分自身の存在(自我も含め)を確固として持っていられるからこそ、逆に"器と自分自身の解離が激しい"人が増えている、というわけです。元々別人なんだから一概に"解離"ではないんだけどねぇ…
自分は内部で生まれたのではなく、元々は外部から来た魂だ、という人も多いです。それを基調に、内部の欠片などを統合吸収を繰り返して確立した、とかね。



ところで。
器の生誕日と我々との関係について書いてきましたが、では"我々の誕生日"は?と申しますと。
もちろんみんな誕生日はあるわけで(笑)
もちろんひとりひとり違うんですよ。
なんだけど…
"誕生日"を自分で覚えていたり親(他人)が覚えていたり祝ったり祝われたりする文化って…恐らく国によっても全然違うよね。日本だって江戸時代くらいまでは誕生日なんてものはなくて、年が明ければみんな同時に1歳年取っていたわけでしょ。
年齢の数え方だって、満年齢とか数え年とか、今でも韓国では同じ年に生まれてるはずなのに2歳くらい違ったりとかあり得るし。
でも、いずれにしても、それっていうのは"対人関係"が発生する環境だからなのですよね。
絶海の孤島に生まれてから死ぬまでひとりでいたりしたら誕生日も年齢も関係ないでしょ。

それと同じで…我々の中では、実は自分の誕生日を記憶している人、結構少ないと思われるんだな…。
そうでなくても「自分の存在なんて」タイプがほとんどだし。

何か強烈な出来事のタイミングで確立したなどの場合は、覚えている場合も、逆に記憶から抹消してしまう場合もあるけれど。

それから、世の中で「誕生日」というのは、恐らく現段階での年齢を知る(計算できる)ために記憶しておく必要がある個人情報なのだと思うのですが、我々の場合は誕生日を覚えていても一概に年齢と計算が合わない(笑)
というのも、まず生まれた(確立した)時に0歳である者はまずおりません(笑)それだけでも計算は絶対合いませんw
我々は大抵一定年齢で確立する。少なくとも表意識に浮上できるような力がある段階では。

それから、年齢を経るスピード。これも結構バラバラ。
1年ごとに律儀に年齢を経て行く人もいるにはいますが、これは案外少ない。我々以外のDIDの方でもそうだと思うな。
それから、内部にいる間全く年をとらないか非常に年を経るスピードが遅いけど、表意識に浮上する頻度が高い時期に年齢を重ねる人も多い。中にはそれで自分の年齢わかんなくなっちゃう人も案外いたりする(笑)「あれっ?いつの間にか自分は○歳か~」とかふと気付く人、社会の中にもいますよねw我々の場合年齢を他人に伝えるような場面が極端に少ないから、自分で意識もしないので尚更です。

あとは…内部で年齢を重ねないのに、確立して存在している期間(年数)が長く(要するに古株メンバーで)、精神的な年齢や知識年齢だけやけに大人びた、我々でいうと百虎や家族対応の子達みたいな子供や若者もいたりする。
かといって内部でちゃんと年齢は重ねているけど、表に出る頻度が少なくて社会的な適応が逆に追いついていない人もいるし。
本当にバラバラ。
その上誕生日など誰かに気にしてもらえるようなはずもないので、いや、それどころか"存在してはいけなかった、存在しないはずの存在なので誕生日なんかあってはいけない"思考の人の方が非常に多いので、個々の誕生日なんかあまり意味がないわけです。寧ろ"器の誕生日"というものの恐怖心から、"誕生日"というもの自体に良いイメージを持っていない人も多い^^;


さてさて。"器の誕生日と我々との関係性"と、結果的に"この器の人物に成り済ますということについて"も書いたかな。


by easy-going-life | 2019-09-14 13:29 | 解離

ありのままの姿で自由に生きよう!

by Harlequins
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